■日刊政経 冬新年号
「青森からの風」

 (2008.1 掲載)

■日刊政経 夏季特集号
「時がくれば――」

 (2007.8 掲載)
■日刊政経 春号 「背骨体験」
 (2007.4 掲載)
■日刊政経夏特集号
「脳外科医と地方の医療」

 (2006.8 掲載)
■日刊政経夏季特集号
「日暮橋とグラスビール」

 (2005.8 掲載)
日刊政経新年号
  イカとスルメの評判

 (2005.1 掲載)
日刊政経夏号価値観と比較
 (2004.8 掲載)
日刊政経新年号さらば時代
 (2004.1 掲載)
■開院にあたり思う「陣屋通り」
 (2003.8 掲載)

「背骨体験」


 歴史の時間軸でみるなら、日頃の営みは実に小さく時の流れに乗っているだけのことが多い。日本的な忘年会や新年会も時の流れを知るものであっても、気持ちの整理や自己を透かしてみるなんてことは少なくなったような気がする。この1年何をして、何を考えて、何を成しえたのかよくわからないことが多いのである。毎日の流れが、振り子のように一定の振動でいくならそれはそれでいい。時々振幅が大きくなったりして交感神経が刺激されたりするにしても、怒ることを久しく忘れ忍耐の継続からはずれてたまに感情的になったにしてもほんの一瞬であったように思う。何故かひとつひとつが不鮮明なまま SD カードに保存されてきた感じである。
  毎日のように発生する殺人事件やストーカーや幼児虐待やコンビニ強盗や汚職と賄賂と談合と、クレーマーおばさんとしがみつきおじさんとたくさんの事件が事件でなくなるような日常では自分の閾値がかわってきてしまっている。
  公正、正義、誠実、勇気、忍耐、親切、博愛がどっかにいってしまった。この欠如感というのは二重の意味で大変なことである。つまり基本的対話の成立の欠如と人間としての教養の欠如という民族の崩壊を暗示させている。話せばわかるとか、威厳とか敬慕とかプライドとかに関係なくなってきていて、せこくて動物的である。
  そんななかで微笑ましいことを探すのが大事かもしれない。自己中とか変人とかお宅とかディトレーダーとかマテリアルガールとかに注目してはいけないのではと思ったりするが。いずれにしても背骨体験、修業の期間の大切さをしみじみ思う。じっと我慢も転回には必要である。

おりえがいう。
「また先生は本の受け売りばかりで、余り真剣に思うこともないと思いますよ。なんかよくわからないなー。我慢して正義を考えるのですか」
「今までも宇宙人や新人類がいたんですから、みんな見た目は違うけど大きな違いはないですよ」
「背骨の苦労をしたら、腰痛になりますよ」

 
  「函館の救急医療」

 函館市 内の救急医療は、いわゆる函館方式といわれそのシステム的有用性はこれまで高い評価をえてきた。すなわち二次救急を各中核病院が輪番で担当、休日の日中は西部、北部、東部などで各開業施設が当番担当するという形である。さらに夜間急病センターが一次救急を担当、輪番で市内のドクターも担当するというものである。ちなみに平成 19 年 1 月のローテーション表をみてみよう。内科系でいえば市立函館病院が 10 回( 3 で割れる日が当番)、五稜郭病院が8回、共愛会病院が5回、赤十字病院、中央病院が4回、国立函館が2回、医師会病院、協会病院が1回となっている。2ヶ所で担当する日も4日あるのでこういう数になっている。
  それにしても各病院はベッド調整、人員配備、検査治療体制を整えて昼といわず夜といわず奮闘しているのである。各スタッフの疲弊は並大抵のものではない。夜を徹して手術になることも多い。しかし、産婦人科や耳鼻科、脳外科の医師不足もあってすべての科が円滑に動いているとはいえない。
  これでいいのか、函館の救急という感じである。自分はなんだかんだいう立場でもないが、医師はお疲れなのである。一次でよい場合は夜間急病センターを利用すべきである。それも老朽化とか予算の問題とかなんかいろいろあるが。
  患者サイドにあっては早めの対応が望まれる。病院はコンビニではないのである。医療法ではいつでもいかなるときでも医師が診療を拒否することはできない。でもやはり思うのである。みんな人間と。
  水、火に力あるも生命なし、草木に生命あるも知覚なし、獣に知覚あるも礼儀なしであり easy access であるからこそ医療サイドのことも考えることができれば、函館もいい街になるような気がする。

八千代がいう。
「函館の人はみんなフレンドリーですよ。むしろディープ過ぎるかもしれないけど。もっとオヤジ諸君は毅然として欲しいなー、媚びない、愚痴らない、威張らないですよ」
「何とかなりますよ。心がこもった感情より、勘定の世界ではあるけど段々わかってくるんじゃないかなー、イギリスの品格ですよ」
「そんなに心配なら、期間限定のトライアルでもしてみたらどうですか」

 品格と期間限定か。期間限定に弱い人は小生も含めてたくさんいるようであるが。でも、でもと心配は尽きない。でも「でもでもお母さん」になるから止めておこう。いいたいことは、医師会も真剣に函館の救急を考えているということである。医療サイドは今こそ助け合いが必要であるから。

「先生、何かあったらどこへ行けばいいんですか。どっか指定してください」
「そんな指定なんてできないよ。選択する自由はあってもそうならないのが現実だから」

 
  「感動と意外性」

  多くの道民が燃えた 2006 年のプロ野球であるが、目標の同一性というのは実に単純で明快である。勝つことであり優勝することである。そこには当然戦略があったと思うが、達成する喜びが数字であることが多い現実の世界にあって、「記録より記憶」の新庄選手の貢献は大きい。今、単純に多くの人に感動を与えられる仕事という観点からいえば医師もすっかり影は薄いかもしれない。「バチスタ」や「ナイチンゲール」に出てくる医師は決して感動的でないのである。もっともフィクションの世界ではあるが。
  実際マスコミの影響という形でいえば、巷には医療に関する番組の洪水である。決して無視できないくらいに力がある。有名な医師のところには全国から問い合わせが殺到するという。3時間待ちどころではない。6時間も7時間も待つことすらあるという。いい意味では、そういう優秀な医師がいるということ、最高のエキスパートになるために努力したという事実を多くの人が知ったということは評価できる。逆の意味では、その他大勢の医師がやりにくくなりセカンドオピニオンが増えていく現実がある。例え地元でできるような手術でも、最高の施設でランキングのいいところでと希望する人が増えればそれこそ特別個別治療の道になっていくかもしれない。多くの人に対する公平性を失わない形が大事である。
  近々病院も診療所も、その診療内容などが公表される予定である。情報の時代にあって流れではあるが、数字にあらわれない評価基準が出てこないとギャップがでるかもしれない。感動は意外性をもったギャップからくるという。

 しのぶがいっていた。
「偶然の感動ってありますよね。相性とか第一印象とか。それって自分のなかで水素原子が共鳴するからじゃないかな」
「まるで MRI みたいだけど、そういうのって大事でないかなー。自分を信じることですよ」

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