| 時が過ぎて、わかってくることや納得できることが段々増えてきた気がする。このことは、今まで何も知らず突っ走ってきたことの証と単純に自分が無智であっただけなのかもしれないが。自分が思うことと人が思うことの違いは当然あって当たり前である。互いにわかってくれている、同じ思いを共有しているという思い込みが一番多いが、実際は案外違ったりするのである。むしろそっちのほうが圧倒的に多い。分かってもらえるために雄弁な人もいる。とにかく語るのである。そこに同席したということが、もう語られて納得させられて相手を知ってしまうというところでその掌中にはいってしまうのである。このモードに入ったら負けると分かっていてもである。そうやって一つの時間が共有できればそれはそれでいい。語る人ほど分かりやすいということもある。分かりやすさというのは大事なことである。人の心をつかむのには一番いい。
その一方で、語るのが苦手で言わなくてもわかってもらいたい、俺をみていれば通じるはずと信じている人も多い。本当のカリスマはそれでいいが、ほとんどは誤解されて分かりにくい人といわれるのである。人は益や評判を求めて付き合ったりはしない。しかし、仕事的には思いやりとか心配り、状況判断力が必要である。ある意味で語ること、教育指導をしないと結局は何もいわない、組みやすい人と思われるようである。エスプリと皮肉が時々でればそうはならない。強引さと勢いがある人もそうは思われない。場が読めすぎて、四字熟語を勉強しすぎるといつかわかってくれるとか、時がくれば理解し合えるなんていう人になってしまうのである。そういう人に限って軽くみられるいいおじさんなのかもしれない。「棺を蓋いて事定まる」では遅いのである。
仕事上では単純明快さがいい。アフターファイブで仕事を離れた友達関係は難しい。時がこないうちに自分の意見をいっていくことが大事のようである。怒る頑固親父のほうがもてるらしい。
おりえがいった。
「また訳のわからないことばかり」
「もっと夢を語らなければついていけないよ」
「恋とファッションとビリーとトラットリア」
今の若い人には可能性があるという。麻生太郎氏も「とてつもない日本」という本で日本の底力、若者の未来について肯定的表現をしている。ある意味で対外的にもアピールできる内容ではある。
若者といえば学校であり、大学である。当地の大学を出ても他の都市に就職する人が多いといえるが。ある時期にあっては中央やいろいろな土地の人と交流することはいい。しかし、ある程度年齢を重ねた時に故郷に帰りたくなるときもあるであろう。そんなときのふるさとはどうあって欲しいのであろう。
大阪の友人はとにかく海への郷愁が強かった。函館の海の写真を送ってくれという。そして魚もと。札幌の先輩は、温泉にくるのが楽しみという。釣りと雪の少なさが好きと。週末の飛行機の時間枠は最悪ともいっていたが。
若い学校時代のみを函館で過ごしたことのある後輩が先日講演にくる機会があった。マイカと銀鱈に舌鼓をうち、「うまい、うまい、うまい」を連発していた。かように学生時代には堪能できなかったり、経験できなかった函館はたくさんあるようである。
今の若い人には、たくさん函館を知ってもらおう。そんな若い人と付き合うには、恋の話に相槌が打てたり、男のエステやビリーくらいやっていなければという人もいる。しゃれたトラットリアやリストランテを知っていればさらに最高という。函館は食の街である。道南レッドや函館ヒカリなんていうのがあってもいいような気がするが。
瑠璃がいった。
「そんなにおいしいものあれば、食べさせてくださいよー」
「まずはスタッフですよ。函館には沈魚落雁じゃないけど美人が多いんですよ、いい男をふやしましょう」
「黒百合の花」
その道は、ながく忘れかけていた街道筋の橋をわたって、その山側に沿った名前ばかりの遊歩道の奥まったところとつながっていたはずである。地下鉄 の手前駅 を降りて、住宅の角々を確認するも、周辺の様変わりは予想してはいたが余りにも人工的であった。作りかけでみせかけはよさそうなエクステリアをもったマンションが、レジデンスという名前でふんぞり返っていた。ぎりぎりの建ぺい率は、北海道文化を感じさせない。設計に思想がない建物が多いのは今始まったものではないが。
デパ地下の有名料亭の昼弁を買い込み、惣菜のいくつかも買い揃えての実家である。高校から大学までの棲家は妙にみすぼらしくみえた。所詮は給料取りの安普請のぎりぎりの家であったけど。
時の流れとともにふてくされたり、無理をしない純朴な樹木は太く、渋ささえもっていた。確かハタンキョウなんていう木もあったはずと。花言葉は軽率だったかな。まるで自分みたいと。楓も躑躅も名も知らぬ高山植物もしっかり根をおろしていた。隣のマンションに枝がかかりながら。
その猫の額の庭で女性は背を丸めて一日を過ごすという。花は文句もいわず、人のように誹ることもないとか。毎年咲くわけでもない黒百合の花が咲きみだれていた。あちこちにその群落が散在していた。来年も母はそこにいるのであろう。黒百合は咲くであろうか。
みひろがまたいう。
「義理と人情が大切と誰かがいってましたよ。友達もビジネスも会社も創は安し、守継は難しいといいますよ」
「花だって、樹だって、猫だって勝手にはいきて生けませんよね」
人は癒しや安らぎを求めたがる。気の合うもの同士の食事も楽しいものである。そんななかで困ったときの友人、落ち込んだときのリラックスの場所、喜びを喜びと感じることができないときの対応、心が充足されないときの転回―やはり人生は塞翁が馬と信ずるべきか。 |