| 寺町を抜けると、旧い蕎麦屋に辿り着く。日暮橋から汗をかきかき、道行く人に今頃なんでと怪訝な顔をされて歩いていたことがある。人は勝手に落ち込んだり、自己を必ずしも肯定できないときがある。そんなときに、ネクタイをして衝動的な旅にでて、せこい顔をしていればいぶかられるのもわかるような気がする。大いなる夢はあっても、思い通りにならないときはただのおじさんである。三味線修理という看板をやり過ごし、手作り豆腐の店をひやかせばすぐに蕎麦屋が佇んでいる。歴史的なきしんだ音をだす狭くて急な階段をあがれば、手打ちの蕎麦とグラスビールにありつける。単なるコップ酒と同じコップビールの味はよかった。グラスワインでなくて、グラスビールという名前にひかれた感じもあるが。食前酒ならずのグラスビールは旨かったのである。ジョッキにはほど遠い量でありながら、まさに蕎麦とビールである。
人は食べ物で幸せと元気がもらえるお目出度い動物である。また満足して、いいことあったじゃないかと自分流に確認するのである。ビールパーティーで飲みすぎて、飲むために仕事しているのと思われたかなとひとりごちるのもそれはそれでいいのかと。
三大栄養素とビタミンとミネラルと食物繊維の勉強をして、いっぱしの頭でっかちになっても毎日食生活のことを考える訳にもいかない。世の中には栄養補助食品がでまわり、血液さらさら系がもてはやされている。でも食事で改善されるのは3割くらいではないだろうか。あとの残りは、毎日の生活習慣であったり、自分の自由時間の使い方だったりする。まずは心の健康をめざしたいものである。好きなものを食べれる幸せを感じて、変なアドレナリンがでないように、グラスビールはいかがですか。小梅がいった。
「それくらいの量では、幸せになれないですよ」「わいわいやるのが一番。ギャルと呼ばれるのが一番」
「ゆずり橋と以心伝心」
Tデパートの上流に「ゆずり橋」がある。いつごろからなのか、何故なのかは定かではないがそう呼ばれている。一車線の狭いところを、実に上手く交互に行き来している橋である。途中で出会い頭しないかと思うこともあるが、今のところうまく流れているのである。丁度登山道路をゆきかう感じにも似て、あいさつでもしたくなるのは自分だけであろうか。相手が合図をおくってくれれば、機嫌よくなる自分というのもおかしい。
今時は、便利と効率主義によってすべてあたらしくいいかっこにつくられているようには思える。でも都心の地下鉄をみても乗り換えには結構歩いたりすることも多い。それはそれで、いい運動と思う向きもあるがそうでない人も多いのである。駅が多層化するということは、どっかで上下移動することである。アクセスはフラットな方がいい。
便利さのいろいろは、軍事作戦の戦略からきていることも多いとか。確かにメイルもPCもといった感じである。パワーポイントのプレゼンテーションの手法はそのものといった風である。しかし、生活の場としての日々の風景のなかでは、どっかに無駄があったり、面白いことがあるということが文化的でいい。一度、映画館で最初から最後まで観客は自分ひとりだった経験がある。一人用シアターである。好きなかっこをして観て、一人でうなったりして誰もいないとなるとまるでしまりがなくなる。興行側にとっては、大きな無駄であるがかなりの評価はえたかもしれない。つまり無駄とか非効率と思えたことが、あとでいいことがあるぞと思えるくらいがいいのである。
おりえが言った。
「譲ればいいということでもなくて以心伝心といっても、はっきりいわないと、姉妹が多いとこではとりあいにだってなるのだから」「生きる強さって、大事ですよ」と。
「それなりの不良定年」
東京からの来訪者は、函館の空気がいいという。定年後に移り住みたいともいう。確かに、ゆっくりと 32 フィートのヨットを浮かべて函館の海を満喫できれば最高である。自然の風と港の匂いは、贅沢といえるであろう。でももっと上の幸せは、孫の面倒をみて一緒に過ごす時間だという。確かに息子夫婦が共稼ぎで、その援助と営みを一緒にというのが自分たちの居場所を確認できて最高である。少子化と環境対策と、労働力確保と医療、教育は国の根本問題である。子供が元気でいけるには、大人の居場所が必要である。そのためには、儒教的父長制度が崩壊した今日、いい意味での不良定年にならなければならないらしい。そんないきいき定年と若者の接点をみつけなくては明日はないぞーといったら言い過ぎか。
個人情報保護法ができて、何でも同意と意思確認の世界になって、書類がまた増えるという時代である。医者の仕事は事務的仕事にふりまわされている。そんな窮屈さが勤務医から開業医に向かわないとも限らない。実際は医療費の削減で高級な医療をめざしても、高級ホテルと同様の対価にはならない。医療社会の安全保障はくずれ、医療従事者のボランティア的仕事で支えられているのである。そんな状況から、不良定年を目指す医者が増えてもおかしくないかもしれない。
書生をおいて、自分なりにきたえて人の世を吹聴して、好きな自分ワールドができないかと思うのは時代錯誤かもしれない。しかし、精々が学費を援助するか昔の自分史を偉そうに語るのが関の山である。でも若者と共存しようという気持ちが大事である。
豊晴はいった。
「先生、人生五分五分ですよ」
「借金返すために、我慢していかなくては」
「上を向いて生きて、下を向いて暮らさなくては」
「数値的優位性とやさしい無関心」
大きな企業には、それなりに就業体制もきまっていていわゆるしっかりしている組織といわれる。市場のシェアーも高ければ、またその組織は安心である。でもよく考えると市場のパイは同じであって、そこを競い合っていることが多いのではという気もする。函館圏の医療費の総額がいくらかはしらない。しかし、月に 100 億としたら、そこを頑張っているだけかと思う。つまり大きいところにはたくさんいって、小さいところは少々という形である。当然大病院は担う比重も大きいし、維持費も大変である。そこに労働過重状態が常態化する形である。若い元気な人が頑張るか、熟年も精をだすしかない。共存共栄で機能分担という発想はすくないように思う。つまり専門性を追求ばかりしていられないのである。
アメリカの社会保障・医療費は歳出の 55% に達する。それに比して日本はというと 23% である。グローバルレベルとはいえないのである。日本の文教・科学費は 8% で、地方交付税と国債で 42% に達している。数値的に優位なところが強い。歴史的に強いところが強いというのは、いい意味でない流れである。やさしい無関心がそうさせたのか、メデイアが精神的内乱でもおこさない限りだまされ続けそうである。
しのぶが言った。
「待つばかりでは駄目ですよ」
「おひとよしと嗅覚が弱いのは似ていますからね」 |