■日刊政経 冬新年号
「青森からの風」

 (2008.1 掲載)

■日刊政経 夏季特集号
「時がくれば――」

 (2007.8 掲載)
■日刊政経 春号 「背骨体験」
 (2007.4 掲載)
■日刊政経夏特集号
「脳外科医と地方の医療」

 (2006.8 掲載)
■日刊政経夏季特集号
「日暮橋とグラスビール」

 (2005.8 掲載)
日刊政経新年号
  イカとスルメの評判

 (2005.1 掲載)
日刊政経夏号価値観と比較
 (2004.8 掲載)
日刊政経新年号さらば時代
 (2004.1 掲載)
■開院にあたり思う「陣屋通り」
 (2003.8 掲載)

「価値観と比較」
  先日の講演会での冒頭で、 女子マラソンの「Qちゃん」こと高橋尚子選手のオリンピック
選考落選の新聞記事がスライドで出てきた。誰もが納得する基準があれば、そんなに問題
にならないのにというのがアピールのプロローグである。 それほど決定、 評価の基準作り
は面倒ではあるが、 すべての項目が横並びではない個々の「重みつけ」という考え方を導
入すべきといわれていた。その基礎にあるのは、conjoint analysisであるという。 
  その詳細は、自分にとってわかるようなわからないようなであったが、試験の配点の重み
付けを考えるとよいといわれた。すべての問題が、同じ配点でないことが多いはずとか。
でも、 そうはいっても巷のマークシ-ト試験ではすべてが同じ配点ではないのかなとつい思
ったりもするのはよくないかもしれない。
  医者の評価も、技術、知識、経験、説得力、危機管理能力、常識力、手術数、外来患者
数、論文数、学会発表数などが同じ配点でなくて、ある重みをもって評価されるなら、より
客観的であろうという。教授の選考過程においては、論文の数が重要な意味をもってくる。
しかも、どの雑誌に出たかで点数が違う訳で、日本語の雑誌では点数が低い。
つまり主流の国際誌に掲載されないと駄目なのである。外国雑誌にたくさん論文をだして
、国際学会も出てもちろん国内の学会も網羅して、手術もあって研究指導もあって教授も
大変である。教授選考では、種々の要素が加味されて決定されるわけであるが、人の評
価というのはとてもとても難しい。
  そのうちにA級医者とか、B級医者とかに区分けされても困るので、 医者の評価基準の
作成はやめたほうがいいかもしれない。
  客観的評価というのは、格付けとか、比較するのに有用である。そこに実は問題がある
のであるが、うまく活用すると面白いかもしれない。たとえば、入院しても静寂度が高い病
院とか、食事がおいしい病院、電話の応対がいい病院とか、 優秀な看護師が多い病院と
かである。何だかんだといっても、世間の口コミが一番であろうとは思うが、当事者が、そ
ういう観点でみていくことが大事と思っている。
  おゆうがぽつりといった。

「データ、データといったって、結局は感じゃないですか。女性の感ってあたるんですよ」と。


  「ヴィオラ的生き方」

 ヴィオラについて多くは知らないが、バイオリン的でもあってバイオリンとは違う、そして
なくてはならないものらしい。決して主役にはなりにくいけど、 セカンドとして貴重な存在
であるという。ある意味ででしゃばらず、ある意味で大きな脚光もあびないけど、マイペー
スで生けていいそうである。それを聞いたときには、何か新鮮な感じがした。
今の時代は、こぞって「波に乗るぞー」といって大きなストリームに引きずられる事が多い
からである。それぞれの職場では、チームワークと称して個人が大事とはいっても、プロ
ジェクトとしてはヴィオラ的発想の人は少ない印象である。 すなわち、存在感があって、
調性があって、人に流されない人といったら、実に難しい。
 オグチカ風にいえば、容貌偏差値の高い人はいても、実用偏差値の高い人は少ないよ
うなのである。こんなこというと小生が誤解を受けるが、あくまでもオグチカである。
すなわち見た目はよくても、実力はなかなかという人が多いということであるが、そんなこ
とは大きな声ではいえないのに彼女がいっているから「うける」のかもしれない。
 就職も結婚も、自分を活かすということに主眼が置かれるが、ひとつの契約であり、最
初が大事である。あとで違うとか、変だとかいわれても修復困難のことが多い。
親の苦労を同じようにさせたくないと考える世代の子供が今なら、 社会での苦労は苦痛
になって、フリーターと未婚の人が増えるとか。人を支えての、ヴィオラ的発想にはなら
ない。みんながバイオリンになれないのにと思ったりもする。
  小梅が、元気よくいった。
「函館にはいい男がすくないでしょ。女性はプライドが高いのですよ。だから人口も増え
ないと思いませんか」と。

  「日々のなかで」
  「御宿かわせみ」の東吾とるいを想像するに、実にうまい関係になっている。お互いに
惚れあい、分別をわきまえていながら主張もしているという、江戸時代のいやらしさやつ
らさがでていない小説である。今の時代からして、 何故かほっとする雰囲気を醸し出し
ているから、ついつい買ってしまうところもある。 現実の医療の隙間をどうするかなんて
のは、頭痛がするだけで考えたくないことも多いためかもしれない。
  基幹病院も存続をかけて、急性期医療に取り組んでいくわけであるが、 当直明けの
医師に「あけ」なんて保障したら病院がもたないであろう。つまり今は当直をやって、 そ
のまま外来なり病棟なりの仕事に入っていくのであるが、 それを休み保障という形にし
たら業務縮小にしなくてならないのである。そもそもが人手が足りないご時世である。
基幹病院といえど市場原理に曝されてしまえば、持ちこたえれるところとそうでないとこ
ろが出てくるかもしれない。数字主義でいくなら、手術症例は診るけれどそうでない患者
さんはいくところがなくなるかもしれない。面倒な手のかかる方は敬遠されるかもしれな
い。つまり隙間ができるのである。皆で支えあおうにも、採算性という壁
で振るい落とされるかもしれない。雇用は少ない方がいいのである。そして、入院在院
日数を減らさないといい病院でないのである。重症例は敬遠され、軽症ですぐ帰れる
人が歓迎されるとしたら。社会的入院なんて、もってのほかということなのだから。
  おりえが言った。
「社会福祉の勉強して、何とかと思っていたけど気持ちだけではどうもならないのです
ね。でも隙間を埋める医療ってカッコいいと思いません?」
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